“人間は考える葦である”
基本的に単独行動が多い私にとって、「さんぽする」「歩く」という行動はすなわち「特に何をするわけでもない自分ひとりの時間」に他ならない。
同好の人と話をすると、確かにその時間「いろいろ考えられる時間になるよね」という話もよく出てくる。
仕事をしていると――まあ仕事にはかぎらないけれど――行き詰まってどうにもならなくなる場面がある。考える葦であるが故に、考えすぎて混乱してしまう。
そんなときは無理せずいったん切り上げてしまうのが昨今の私ではあるのだけれど、先日その状態で歩いていると、頭の中で凝り固まったものとか、煮詰まってしまったものとか、そうした重たいものが、歩くという一定のリズムでほぐれ、重力によって足のほうに流れていくような、そんなことを感じる瞬間があった。
頭の中がクリアになり、また考える余裕・余地が生まれたかのように。
行き詰まっていたはずの仕事のアイデアがまた生まれてくる。足の裏で感じる歩くリズムがそれをまたよりしっかりとした形に変え、定着させていく――そういう体験だった。
これってなんだろうなと思う。ひとりの時間が持てているということは前提として、やはり足裏から上がってくる地面の刺激とかリズムとか、そうしたものが影響してるんじゃないだろうか。
つまり私の場合は、“考える足である”ってことなのかな。などとくだらないことを思う。
もちろん、いつもいつも好転するわけじゃなくて、ますます煮詰まって焦げ付いてしまう日だってある。それもまた考える葦であるが故。
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