[031]
「そろそろ行こうか」
よしおか病院に向かう予定の時刻が来て、わたしはあっちゃんに声をかけた。
あれやこれやとなかなか出発できないあっちゃんを苦笑いしながら待ってるわけだけれど、ふと、子どものころ、かなりせっかちなマサさんが、少しのんびりなあっちゃんをいつもこうして待ってたなと思い出したりしてた。
朝だというのに真夏の日差しは厳しい。日傘を差したあっちゃんはゆっくり歩いていく。
いや、イメージしていたよりも相当に足が遅い。足取りそのものはしっかりしているが、84歳の現実を見させられているようだった。スポーツウーマンだったのに。
わたしがイメージする病院までの時間の倍ほどもかけて、ようやく到着したあっちゃんを待合の椅子に座らせて、指示されていたとおり、まずは窓口で清算をお願いした。
支払額は予定どおりだったが、逆に以前の診察費用の戻りが少しあった。要は医療保険証が確認できなかったことで一時的に10割負担だったものがあったということなのだ。
これは、この2月に「保険証がない」という段階で覚えた「もしかしたら毎度10割負担してたのか」という疑問に対する答えなのだろう。カネに対する無頓着かつ無執着には驚かされる。それが認知症ということなのだろうけれど。
病院の扉の外に、ワンボックスの介護タクシーが入ってきた。
ドライバーさんに「よろしくお願いします」と挨拶を終えると、ちょうど車椅子を押されてマサさんが現れた。
20日前の状態を考えれば車椅子というだけでずいぶんと状態はいいように思う。でも実際はどうだろう。
胴回りには大きなコルセットが巻かれ、ただ椅子に固定されているだけのようにも見える。
「リクライニングのできる椅子でお願いします」
車椅子を押してきた看護師さんがドライバーさんに声をかける。
わたしには余った紙おむつを含めた荷物が手渡された。
後部ハッチから下ろされたスロープに、マサさんは車椅子ごと乗せられていく。看護師さんとドライバーさんがリクライニングの角度を調整し、そして固定された。
「お世話になりました」
あっちゃんはマサさんと横並びになる後部座席に、わたしは助手席に乗り込み、介護タクシーは出発した。
「さくら老健でいいんですよね」
「はい、お願いします」
「良かったですね、あそこに入れて。このあたりだともっと遠くの老健になることも多いから」
「そうなんですね。わたしはこっちに住んでないので詳しくなくて」
確かに、住所で調べたとき「ずいぶん繁華街の近くにあるんだな」と思った記憶がある。行きやすい場所にあるというのは面会に行く側にとってもメリットは大きい。
「介護タクシーは初めてですか?」
「そうです」
「車椅子を乗せるとプラス3000円、ストレッチャーは5000円というのが通常の価格です。ぼったくり業者もいるので注意してくださいね」
知らないことが多すぎる。
「ところで障害者手帳はお持ちですか?」
「持ってるはずなんですけど、なくしちゃったみたいで」
「わかりました、では1割引しますね」
紛失中なんだから割り引かなくてもいいよ、と言おうかとも思ったが、ここは素直に甘えることにした。
繁華街を抜けた介護タクシーは、大通りに面したまるで高級ホテルのような大きなビルのアプローチに乗り入れていく。エントランスに大書きされた「さくら」の文字が見える。
扉の前に立っていた警備員がまるでドアマンのようにタクシーに近づいてくる。
「ここ?」
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