2024年5月29日水曜日

翳りゆくひと。[033]


[033]

さくら老健を出た後は、最寄りのバス停の場所を確認した。幸いなことに、マンション前のバス停から1本でここまで来ることができる。毎日でも面会に行く勢いのあっちゃんにとって、それはありがたいことだった。

でも今日は容赦なく夏の日射しが降り注ぐ。

「今日は暑いからタクシーで帰ろう」

帰宅したあっちゃんには「面会は午後2時からだって」と改めてさくら老健の面会時間を説明した。

「でもしばらくは暑いし毎日は行く必要ないからね。スタッフの人が付いててくれるから心配ないし」
「そうよね」

『暑いときは面会に行かない』と書いたメモも電話の横に貼り付けたけど、見てくれるかな。

「病院のお金払わなきゃね」

何かのスイッチが入ったか、急にあっちゃんが聞いてくる。

「マサさんのお金、預かってるから。そこから払ったから心配ないよ」
「そうなの?」

そういえば昔からあっちゅんは帰省のたびに「これ飛行機代」と渡してこようとする人だったな。もらったことはないけども。
たぶん、子供になにがしかの負担をかけることをものすごく嫌がってるんだろうな。

「お金のことは全部任せてもらって大丈夫だから」

その話の流れで、「もう一回銀行行ってくるね」とわたしはマンションを出た。

前日から預かりっぱなしのN銀行の通帳をATMに入れて記帳をする。そこには予定どおり、SN証券からの入金が印字されていた。あの現金化した、マサさんの「資産」だ。

わたしは心の中でこぶしを握った。
この残高があれば、喫緊の金銭的な課題はなくなったと言っていい。
この口座の通帳とカードは、そのまま預かることにした。老健の費用を含めて、必要な支払いは、マサさんの名前でわたしが対応する。

あとは入院費用諸々のためにM銀行で下ろした現金の余りはF銀行のFB口座にすべて入金しておいた。これでしばらくはこまごまとした引き落としにも対応できるだろう。

それから区役所に回って、保険課でマサさんが入院中に作った装具の返金の手続きをした。返金先の口座はわたしが確認できるようにN銀行にしておいた。

手続きそのものは簡単だったが、時間は意外にかかってしまった。

「じゃあそろそろ帰るよ」
「しばらくひとり暮らしになるけど、何か困ったことがあればいつでも連絡して」
「ながいきセンターのセイコさんも助けてくれるはずだから」
「面会も暑い日は行かなくていいよ」

いろいろ一気に言ってしまったけど、ちゃんと届いただろうか。
あっちゃんのひとり暮らし、どうなるんだろう。
本格的なひとり暮らしって、初めてのはずだし。

復路便を待つ空港ロビーで思い出していた。たくさんのケアスタッフが働く、広々としたさくら老健のフロアを。あそこにいればマサさんのほうは心配ない。

やはり心配なのは――。

空港から自宅に戻ったわたしは、自分が疲弊していたことに改めて気がついた。それは体も心も。そして正直に言ってしまえば財布の中身も。

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