2021年5月20日木曜日

不公平感について考えてみる。

鳴かぬなら
そういう種類の
ホトトギス

この句をネット上で見かけたのはいつのことだったか。


最近ちょっと「不公平」について考えている。

昨今ワイドショーやらネット上に渦巻いている怒りの根っこはこの「不公平感」にあるんじゃないかなって思ってたりする。
「なんで私だけが」、あるいは「あの人だけずるい」みたいに、見えていないはずの隣の芝生を見るようにして。
さらには「公平だとは思えないから、これは間違っている」と。

・・・しまった。考えがまとまってないのに書き始めちゃった(^^;

確かに私たち・・・と書くと主語が大きすぎるな。少なくとも僕は人々は公平であるべきと教えられてきたように思う。
でも、きょうだいでお菓子を均等に分けるように、実際にはすべてをフラットにすることなんてできないわけで。

たとえばワクチン接種の順番。医療従事者、高齢者・・・という順番が示されているけれど、その順番そのものが本当に公平なのか。
個々の高齢者の中でも予約が取れたり取れなかったり、そこは不公平じゃないのか。
キャンセルになったワクチンを無駄にしないために誰から打つべきなのか。

そんなの全部不公平だと思うのよ。
自分よりも先に打つ人がいるだけで「自分にとっての不公平」だもん。わかる。
かといって、1から100まで調整するわけにもいかないでしょ。それこそ時間がかかるって怒られるだろうしね。
スピード感をもって事にあたるのであれば、「走りながら考える」しかない。アジャイル的な手法は広くは伝わりにくいのかなあ。フィードバックではなくて揚げ足取りばかりだもんな・・。

別に「『なんで私だけが』と思うな」なんて不遜なことを考えてるわけじゃない。むしろ当然の感情だと僕は思う。

でも、それぞれの考える公平・不公平はそれぞれの基準でしかないから、それにいちいち反応しないようにしよう。それこそ多様性だと思うから――鳴かないホトトギスのように。

「どうせ世の中不公平なんだよ」としたり顔で言うつもりもないし、断片的な切り取りでさも訳知り口調で語るつもりももちろんないし、でも「僕の中の公平=ベストエフォート」に沿っているものであるならば、素直にそれを受け入れていきたい、と僕は今考えている。

*  *  *

誰かの発した不公平は、「わかるわかる」となって広まっていき、主語が大きくなりながら先鋭化していく。原型をとどめていないことすらある。負のトレンドとでも言おうか。

一方で「わかるよ、わかる」と言われると「うるせぇ」「何も知らないくせに」という反発もまた生まれるし、「わかるけど、でも」なんてのには「説教されるいわれはない」なんて気にもなるだろう。

実際にはこうした「渦巻く怒り」を目にし続けるのはつらいことで、無視できればそれがいちばんいいのかもしれないれけれど、かと言って情報に触れないわけにもいかないわけで、達観できるほどの地力もなく、塩梅がなかなか難しい。

適度に鈍感でいたいなあ、なんて思っている。

*  *  *

それこそ意見が尖りまくっているのが、間近に迫ったオリンピック・パラリンピックのことだろう。
僕自身も考えることはいろいろあるけど、イージーに答えが出るようなことじゃないな、と今は思うのみ。開催にしても中止にしても延期にしても、関係者はそのスキームに途方に暮れてるんじゃないかな。

ただ、最悪なシナリオは、まるでアスリートが悪のようにとらえられ、スポーツそのものの価値が認めてもらえない世界がやってきてしまうこと。

だって、僕はスポーツの力を信じてる。

・・・あー。考えがまとまってないのに書き終えちゃった(^^;



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