それは1本のメールから始まった――
本人は「立つ鳥跡を濁さずって言うでしょ」とにこやかに宣言していたが、こちからしてみれば泥の上のビニールシートだ。
前触れもなく、隣席の武庫川が社を去り、彼の残したただでさえ難儀な案件は混迷した。どうにかそれを取り繕い、無事とは言えないまでもようやくひと段落というところまでたどり着いた午後。
「久しぶりに飲みにでも出るか」。そういえばここのところそんな余裕もなかったな。マグカップのコーヒーを口元に運びつつぼんやりとモニターを眺めていた。そこに届いたメール。
[矢野です]
メールのタイトルに説明ではなく、自らの名前を書いてしまうのがあの男らしい押しの強さ。明るく少し甲高い声が聞こえたような気さえする。
弛緩していた神経が一気に尖る。件名に説明はなくとも内容については想像がつく。その明るいキャラクターに隠れた計算高い目が俺を呼んでいる。
マグカップをデスクに戻し、マウスを握る。
[P-30、MTG、10日22時、いつもの場所へ。]
自分の部下になら「メールのマナーがなってない」ぐらいの文句のひとつも出そうなそっけない本文。だがそのぶん用件が際立つ。
小さくため息をつきながら、頭の後ろに手を組み、背もたれに寄りかかって天井を見上げた。
「課長、どうかしました?」
背後からの声に慌ててメールを閉じた。
「武庫川さんの件、無事に終わったんですよね。まだトラブル残ってるんですか。」
声の主はリナさん。俺が異動してくる前からこの部署にいるからそれなりのキャリアのはずで、「さん」付けで呼んでいる。けれど、正直年齢不詳、聞いたこともない。なんとなく年下だと思ってはいたんだが、今さら聞けないか。
彼女はいつも、絶妙なタイミングで声をかけてくる。直接的な仕事での関わりは少ないが、まるでこちらの心を見透かされているような、何とも言えないタイミングで。
いや、俺はそんなに苦しげな顔をしてたのか。
「ん、ああ。」
曖昧な返事と取り繕った笑顔を返すと、再びモニターに視線を戻し、メールソフトの一番上の行、[矢野です]の文字を見つめながら、声にならないようにつぶやいた。
「行くしかないか・・・」
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