2016年10月26日水曜日

四十九日のレシピ、再び。

キョンキョンのオススメ第13弾、伊吹有喜「四十九日のレシピ」を読了。以前映画も見てるんだけど、せっかくオススメされたので原作小説も読んでみようかと思いまして。
どういう話かは映画を見たときに書いたブログを読んでいただくとして(手抜き)。

この物語の主人公は、乙美かあさん、略して乙母(おっか)さんだ。
だけど、彼女はすでに亡くなっている。いない。
いないんだけど、残したもの、言い換えれば「生きた証」が物語をつむぐ。それはモノであり、人であり、思いであり、レシピであり。

物語の中心にいるのは乙母さんの義理の娘。でも、物語を動かすのは彼女ではなく、その「生きた証」そのものなのだ。そのことが、読者としての僕にすごく響く。

血のつながり、母子、血脈。
愛情と名を変えた無遠慮、無理解。
「生きている人間」はときに残酷だ。だからこそ求めるものもある。

わずかに乙美さんが登場する回想シーンで、そのことを端的に表現する文章があった。

『きっと人生には何かが必要だ。
食って寝て起きての日々を鮮やかに彩る何かが。幸せな気持ちを作り出す何かが。(略)心を動かす美しい何かが。』


なんかそういうことなんだな。

そして娘は気づく。『望んだ花はなくとも、別の美しい花がいつも咲いていたことに』

そういうことなんだよ。

うまく文字にはできないけれど、奥底のほうで納得してしまった。
うん、矛盾してこその人間なのかも。そんなことも思ったり。

クライマックスは実に素敵で、エンディングは実にせつなく、そして愛おしい。
あれ?映画と「終わる場面」が違ったかも?細かくは覚えてないが。

・・・改めて永作さんはじめ、映画出演者たちの演技力という凄味を思う。これだけの細やかな心の動き、見事に表現されていたかと。

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