コトバを使った短歌や俳句のような「作品」には双方向のコミュニケーションの要素はいらない。一方、僕たちが日常使っているコトバは、コミュニケーションのための大切な道具であり手段だ。
でも、コトバをきちんと伝えてきちんと受け取るのって、すごく難しい。
面と向かって話す中でもそれは簡単ではないのに――むしろ面と向かうからこそ難しい、という側面もあるかもだが(汗)。
『なんでくるの?』――二重の意味にとれるこの一文がきっかけでトラブルが起こったなんて報道も見た。
ネットワークの中のコミュニケーション障害、怖いなあ。
たとえ曲解されてても「そうそう、がっはっは」と笑ってられるかな。にっこり笑いながらも「違う違う」と心の中で唱えるかも。怖い怖い。
そんな危なっかしいネットワークの中で自分の日常を綴るなんてやめればいいじゃん。あるいは公開しなければいいじゃん。
そういう考え方も当然、ある。
今回自分の書いたものを読み返して、気づいたことがある。小心者であると同時に、僕は寂しがりやなのだということ。
誰かに「伝わった」「届いた」という実感があれば、それがうれしい。動機付けにもなってる。
こんな零細ブログでも、たまにコメントが付いたりするとすごく喜んじゃうし、心配だからアクセスログなんてのも見てたりするわけだ。
だからそれでも僕はコトバを紡ぐ。この瞬間の自分を忘れてしまわないように。
そして「自分のため」と言いながら矛盾しているようだけど、読んでくれている「あなた」に向けて。
・・
・・・
はぁぁ。案の定結局何書いてんだかわかんなくなっちゃったよ。
やっぱりゴールはある程度決めてから書かないとだめだな。慣れないことはするもんじゃない(笑)。
無理にまとめて結論。
憧憬はあるものの、僕は短歌や詩のようにコトバを濃縮する技量も持ち合わせていないし、そこに伝わっていくチカラを内包させられるとも思えない。
僕のコトバが誰かに届くように伝わるように願いながら、これからもだらだら長いコトバをブログに残します。それがコミュニケーションのきっかけになるといいなぁと思いつつ、だから読んでるあなたも汲み取ってくれーとお願いをしておきつつ、今後もぜひともご贔屓に。
そういうわけで、以上投稿1,724本目でした。お後がよろしいようで。ちゃんちゃん。
暮れる空から日が落ちて
やがて大地に届けば土に還る
夏の終わりの夕刻の写真を添えてはいますが、深い意味はござらぬ。単なる「文字遊び」です。
* * *
この一連の文章を書くきっかけになったのは、ファイル転送サービスのHPにあったコラム「誰と繋がる?」を読んだこと。とある女優さんの文章です。
中でも特に気になったところを引用させてもらいます。
(略)例えば、私が書いた言葉を発信したとしよう。文章を書いていても、飛ばして読んでいたり、自分なりに違う風に変えて解釈してしまうのだ。これは、今まで何度も見て来たし、知り合いにも同じような経験がよくあると聞く。もう、これはネット人間の症状と言えるのではないでしょうか。
『今日、舞台のお稽古が休みだったので、母親と○○でランチをしました。』とつぶやいたとしたら、『今日はお稽古ないのですか?』とか『1人?誰と行ったの?』とか『どこでランチしたの?』というような質問が返ってくるのです。
引用【宅ふぁいる便>連載企画TOP>ソニンの明日に生きる言葉】
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