[025]
院長は言葉を続けた。
「病院としては、必要な治療はもちろん行いますが、もしものケース、たとえばお父さんは心臓に持病があるから不整脈とか、あるいは肺炎とか誤嚥とか、それによる心停止、そうした事態になった場合にどうするか、ご家族として同意書を書いておいてください」
頭では「そうだろう」と思っているけれど、いざ『積極的治療を希望しない』にチェックを入れるときには少し手が震えた。
ただ、マサさん本人は理解できないだろうし、それでいい。マサさんはまもなく90歳。もしもそうなれば大往生だ。
「ご本人とはもう会われました?」
「いえ、昨日は到着が遅かったのでまだ」
「そうですか、手配させますので会っていってください」
入院病棟の待合エリアで待っていると、マサさんが横になったままベッドごと移動してきた。
その表情を見て、わたしは言葉を失ってしまった。
つい2ヶ月前はあんなに穏やかだったマサさんの顔から、「力」がまるで抜けてしまってるようだった。入院してるのだから当然なのかもしれないけれど、生気があまり感じられない。
それでも何か声をかけなければ。
「どうですか、具合は」
自分の口から出た言葉が、敬語になっていることに自分で驚いた。
わたしにはマサさんと会話をしているという実感がなかったのかもしれない。
マサさんも何か言葉を発しているようだが、これも脳梗塞の影響なのか、何を言っているのかまったく聞き取れない。本当に会話にならなかったのだ。
マサさんはベッドの上でモソモソと動いているが、見るとやはり左手がまったく動いていない。自分の身体が自由にならないことへの苛立ちみたいなものも感じる。
言葉にならない言葉を発し続けている。わたしは「そうだね」と相槌にもならない返事を繰り返していた。
「早く元気になってくださいね」
5分も経っただろうか。たくさん話そうとしたマサさんの息が上がってしまったような気もした。
もう十分だ。
写真を1枚だけ撮らせてもらって、看護師さんに面会を終えることを告げた。
病院を出たところで、いぬかいのサダカタさんに電話をし、ひととおりの状況を報告させてもらった。今後も何かあればよろしくお願いします、と。
マンションに戻って、あっちゃんにも聞いてきたことを簡単に説明した。
「脳梗塞でね、しばらくはよしおか病院に入院することになるから」
「面会に行くなら、電話予約が必要だって言ってたよ」
医療機関ではまだコロナ対応の影響は残っている。面会の人数・時間にまだまだ制限がかかっているのだった。
「それでね、院長先生がね、もし治療が終わっても麻痺は残るから、この家に帰ってくるのは無理だって」
「そうなの?」
「最終的には施設に入ることになると思うよ」
「このマンションの1階に空いてるところがあるから、そことここを交換してもらって1階に住めば・・・」
分譲マンションの部屋交換なんてそう都合のいい話、できるわけがない。
昔住んでた社宅アパートならいざ知らず。
「1階だってアプローチのところに階段あるでしょ。それがもう上れないから」
「そうよねぇ」
しばらくひとり暮らしになること、そしてマサさんはもう戻ってこれないこと。
何度も何度も説明を繰り返したが、はたしてあっちゃんの記憶に定着してくれるだろうか。
帰路、ながいきセンターのセイコさんにも電話で一連の事情を説明した。
身の回りに医療が存在しているマサさんよりも、心配なのはあっちゃんのほう。わたしとセイコさんは、その点で一致した。一致してしまった。
一方で、院長の言葉を思い出したりもしていた。
『連絡、つくようにしておいてくださいね』
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