アクティブとはいえない日々の中で、なんとなくテレビの前に座ってる時間が長くなるときは、静かに語りかけてくるような、そういう映画もいいかもな。そんなことを思っています。
というわけで、今回今さらながらに見てみた映画は「わたしは光をにぎっている」です。
“光をにぎる”、そのなんともはかなげで、それでいて先をつながっていくような、そのタイトルがすごく気になって。いわば「タイトル買い」でした。
祖母の病によって、ともに暮らす民宿を閉めることになり、ひとり東京に出た主人公が身を寄せたのは、父の親友の営む古い銭湯。
仕事探しもうまくいかない中、やがて銭湯の仕事を手伝うようになり、下町の雑多な空気とそこに暮らす個性的な人々の中で、少しずつ成長していく主人公を描く――そんなところだろうか。
「わたしは光をにぎっている」というのは祖母が好きだった詩の一節。入院するその朝に詩集が主人公に託された。
この祖母が託した言葉はほかにも。そのひとつが『見る目、聞く耳、それがあれば大丈夫』。
言葉が少なくて声が小さい主人公に、コミュニケーションの大切さを伝えようとしたのだろうか。
そして物語の終盤に、主人公自らの口からこの『見る目、聞く耳、それがあれば大丈夫』が発せられる。単純に成長した、というよりも、ようやく祖母の言葉が届いた、という感じだったな。銭湯で掃除をする主人公と、民宿の風呂場を掃除する祖母の姿が重なる。
『言葉は光』
まだ客のいない時間帯の銭湯に、柔らかく差し込む光がきれい。湯船にきらめく光も。その光を。
「ひとつの終わり、そして再出発」がテーマだろうか。それはすべての登場人物に通じるものだと思う。
主人公が銭湯にやってきた場面、そしてその先頭から旅立とうとする場面。同じような服装に同じカバンを持って、だけど明らかにその立ち姿が持つ力強さが違う。感嘆。
この主人公を演じたのが松本穂香。auのCMの影響で松本さんと呼んでる(^^;
言葉数の少ない主人公を、それでも言葉を大切にしようとする主人公を、見事に演じてたと思う。言葉だけでなく表情の変化すら少ないのに、一歩ずつ進んでいる姿が見て取れたのはすばらしかったなぁ。
こうして書きながら、改めてじんわりと温まってくるような一本、そんな感じだった。
そうそう。光石研の泥酔演技は必見!(笑)
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