ちょっとしたリラックス読書に抜群、穂村弘「野良猫を尊敬した日」を読む。
ほむほむは『自分がだめだ』と書くのだけれど、それは単に自分ではない者・事に憧れてるだけなんだと思う。実際にはだめなことではないと思うのね。
同い年だからね、感触が近い。スターバックスでうまく注文できないことも(^^;
それは嬉しいことだし、そして自分もこれでいい(=だめなことではない)と思える。それも嬉しい。
不安と迷いに充ちたルートからも梯子を掛けられることを証明したい。(「天職の世界の人々」)
記憶壺のなかでは顔と名前がばらばらになってしまうらしい。(「記憶壺」)
贈ってくれた相手の気持ちを嬉しく思うよりも、物としてのダサさが気になる。さらには、こんな物を適当に買ってきやがって、と贈り主を憎み始める。(「微差への拘り」)
なんて脆いんだ、自分。(「肝のサイズ」)
はっきりとした時代の変化がある場合はまだ納得がいくんだけど、いつのまにか共同体の合意点が変化していると、びっくりしてしまう。(「常識の変化」)
「今は」はもう「僕らの頃」じゃないんだなあ。(「心の物差し」)
めんどくさいというお化けのせいで、一生を棒に振ってしまいそうだ。(「めんどくさくて」)
頭でっかちで心ちびの私(「がんばれない」)
社会の認識とずれを感じながら、それを調整する技術もなく、かといって主張できるわけでもなく、放置しつつ悩んでいるのは自分だけじゃないんだと、確認ができてひと安心する。
そして一方で、自分が言葉にできなかった感情を、しっかりと言葉で説明されたようで、猛烈に恥ずかしい。
・・・という話も書いてあったりして、ますますその感触の近さが嬉し恥ずかし。
そうだったのか、と思う。自分でもわからなかった自分の感覚を、他人に教えられたような気持だった。(「自分と他人」)
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