2015年9月9日水曜日

今日から私は心の旅人。

♪風立ちぬ 今は秋

ひと雨ごとに秋の気配が強くなってきている今日このごろ。「風立ちぬ」といえばジブリじゃなくて松田聖子だよねという華麗な皆様、いかがお過ごしですか。

妙な書き出しで申し訳ありません。何を思ったか急に読んでみたくなりましてね、堀辰雄「美しい村」「風立ちぬ」を手に取りました。
「読んでみたくなり」という言い回しでお気づきの向きもあろうかと思いますが、恥ずかしながら初めての堀辰雄なのです。映画の影響か古本屋には大量に新しめの文庫本が並んでいます。

堀辰雄といえば“イコール軽井沢”という図式なのでしょうが、文学的素養に欠ける僕が初めてそのことを認識したのは、若かりしころ愛読していたマンガ「軽井沢シンドローム」(作・たがみよしひさ)の作中でのこと。「へー、そんな作家さんがいるのね」ぐらいの認識ですが。

一方でこの「軽シン」を通じて、軽井沢への憧憬は大きなものとなり、取りたての免許証を携えて碓氷峠や和美峠を何度か上り下りもしました。
テニスしたりジャム買ったり(笑)、そうした観光客であったうちはよかったのですが、やがて自らが「おのぼりさん」であることに気づきます。そう、観光地ではなく「避暑地」としての軽井沢の姿を知ったのです。
それはもはや憧憬というだけでは語れない、ややもすると卑屈な感情を呼び起こすような――。

さてそこで堀辰雄です。前置き長っ。

前述のようなひねくれ感情は「美しい村」を読んでいるうちは確かに僕の中に巣食っていました。
しかし、「風立ちぬ」に読み進み、舞台が八ヶ岳山麓のサナトリウム(調べたら富士見なんですね)に移るころ、もうすっかりその世界の住人になってしまったような気分になっていました。
高原の一日、そして季節のうつろいは、光と闇のうつろい。生と死のイメージをまとって。

ジブリ映画のキャッチコピーは「生きねば」でしたが、「風立ちぬ、いざ生きめやも」という、少々弱々しい言葉のほうがこの世界には似合っている気がしました。正直古文はかなり苦手ですが(汗)。

生と死の間、そこに見え隠れする愛と幸福の幻影――。

読み込むというより、入り込んでくるような作品でした。
ま、最後に現実世界(=K村)に主人公が戻ってくると、僕の中のひねくれ感情も少しだけ復活しましたけどね(^^;

話の筋とは直接関係はないのですが、描写がとても美しいなと思いました。たとえば『節穴から明るい外光が洩れて来ながら、障子の上にくっきりした小さな楕円形の額縁をつくり、そのなかに数本の落葉松の微細画(ミニュアチュア)を逆さまに描いている』とか。
あとは、印象を自分の言葉に翻訳する、とか、頭脳の混乱と蜜蜂の唸り声を対比させる、といったような言い回しなんかもいいなあと。

*  *  *

読もうと思っててすっかり忘れちゃってたな、「火花」
ちなみに買ってきたのは坊主1号です。これは15刷。

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