「初めて入りましたよ、このお店」
リナさんを連れてきたのは、会社から駅へ向かうのとは反対方向にある焼き鳥屋。反対方向、というのは2人きりだということが気になったから。それと「おじさんっぽい焼き鳥屋さんがいいです」という彼女自身のリクエストに応える店はここしか思い当たらなかったから。
色褪せた暖簾の脇に持ち帰りもできる小窓があって店の中は丸見えなんだけど、脂のかかった炭から立ち上る白煙が軽いブラインド効果をもたらしている。平均年齢も男性比率もいずれも高い、典型的な赤提灯だ。
「こんなとこで良かったのかな」
「女子おひとり様で焼き鳥って結構ハードル高いんですよ。こういうお店はなかなかチャンスがないからちょっと楽しいです」
そう言って、使い込まれて黒光りしたテーブルや剥がれかけた壁のメニューを見比べるように視線を泳がせた。
「ぼくは生ビールにするけど、リナさんは?」
「私も生ビールで。あと・・・オススメ串5本ってやつ」
「じゃそれ2人前。とりあえずそれでお願いします」
「それに、静かなとこってちょっと苦手で。騒がしいほうが気楽だったりしません?」
「確かに。うるさいとこのほうが落ち着くかも」
話をするにも静寂ではなく、喧騒の中のほうが都合がいいかもしれない。白い煙が立ち込めているほうが。
「課長ってタバコ吸わないですよね」
「もうずうぶん前にやめちゃったけど、なんで?」
「まわりのお客さん、ほとんどスモーカーですよ。今時こんなのって居酒屋さんぐらいですかね。珍しくって」
俺は禁煙にあまり苦労しなかったせいか、飲み屋で周囲に喫煙者がいてもあまり気にならないほうだ。改めて見回してみると、なるほど白い煙は炭のせいだけではないようだ。
「タバコ、苦手ですか?」
なぜだか敬語になってしまった。
「いえ、ぜーんぜん。私も実は一応禁煙中なんですけど、気になりません。あ、でもお酒飲みすぎると吸いたくなっちゃうかもー」
こんなふうに笑いながら自分の話ができる人なんだな。意外なような、そうでもないような。テーブルの上に漂っていた白い靄が少しだけ晴れた気がした。
元気のいい声が割り込んでくる。「はい、生お待たせしましたー」
「お疲れ様」
「お疲れ様でした」
ジョッキがぶつかる音は隣のテーブルの笑い声にまぎれた。だけど、その感触は確かに手の中に残った。これが始まりの合図だ。
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