2017年1月6日金曜日

漂砂のうたう。

キョンキョンのオススメ第16弾、木内昇「漂砂のうたう」を読了。
時代小説の経験があまりない僕にとって、明治維新後の話とはいえ、そのセリフ回しや未知の言葉、読めない漢字(汗)となかなかにハードルは高い。ましてや舞台は遊郭。さらに独特の用語も多くて・・・。

それでもなんだかんだで物語の世界に入っていけたのは、おそらく難しい単語や漢字を雰囲気でわかった気になって読み飛ばしたからだと思う。開き直りってやつですな(笑)。

それでも単語そのものはおもしろいものも多い。たとえば維新を表す「御一新」とか、遊郭にいる「遣手」はやっぱりおばさんだったり、文字どおりショーケースの「見世」とか。知識がないのを露呈して恥ずかしいけど。

主人公の定九郎は、今で言う呼び込みみたいな役目なのかな。客の品定めをし、トラブルの種を回避し、そして入店させるかどうかの判断をし、もちろん雑用もこなす。
御一新の波に飲まれ谷底に落ちているものの「自分はいつでもここから別の世界に行ける」、そう思い込むだけで何もアクションを起こせない男。売れない噺家とナンバーワン花魁との出会いの中で何かを感じることになる――。

基本的には主人公の心の内を語る純文学的な話なんだと思う。ただ舞台があまりに非日常であるがゆえ、ファンタジーのような心地にもなる。遊郭ってそもそも夢の世界だし(^^;

夢かうつつか。希望か絶望か。

さらにポン太という謎のキャラクターの存在によって、定九郎と読者の心はかき乱される。

残りページが少なくなったところで、夢がうつつに醒めていく、そんな期待感が大きくなっていく。そうか、この変幻自在な話はまさに、言葉から現実を生み出し、そして「下げ」に向かって収束していく落語の世界なのか、そんなことも思う。

やがて物語はクライマックスの「花魁道中」へ。

ぐいぐいと引っ張られる。この引力はすごい。
そして墓地でのラストシーンは、まるで映画を見ているかのように美しい。と同時にそれは儚い。

『自由なぞ実際にはどこにも存在しない』

――読書こそ、夢とうつつの狭間にあるもの。

0 件のコメント: