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みぃさんとわたしを乗せた車が駐車場に滑り込む。窓の外には建物に入ろうとするあっちゃんの後ろ姿が見えた。
グッドライフ中央公園、あっちゃんとマサさんがこれから暮らす老人ホームに到着した。
本当は「ようやくここまで」と感慨にでも浸れればよかったのかもしれないが、どうもそんな感じでもなかった。わたしはなぜだか少し緊張していたのだ。自分のことでもないのに。
「まずはお部屋のほうに行きましょうか。8階になりますので」
検温と手指の消毒を終えたわたしたちは、エレベーターに乗り込んだ。
8階の廊下を進んでいくと、途中にマサさんの名前が書かれた扉を見つけた。
「父も同じフロアにしていただけたんですね」
「はい、うまく空きがありましたので。奥様のお部屋はこちらになります」
ベッドと小さなクローゼットが置かれている以外はなんの変哲もない、トイレと洗面付きのワンルーム。手すりが多く設置されてるのが特徴といえば特徴か。
窓の外に何があるわけでもないけれど、高層階の窓からは目線を遮るものがない。
「明るくていいね」
わたしの言葉にあっちゃんは特に何も返してはこなかった。
荷物の搬入と開梱をみぃさんとイワキさんに任せて、わたしは別室で入居契約の手続きを進めることになった。
ひと口に入居の契約といっても、実際には入居契約をはじめ、介護の利用契約、訪問介護の契約、療養管理指導の契約、細かいところだと見守りカメラの同意書、貴重品管理の同意書などなど、想像をはるかに超える数の契約書の説明を受けつつ、それぞれに署名捺印を求められた。
それがふたり分。最後のほうには何にサインをしているのかわからなくなるぐらいの量だったが、ようやく最後の判をついたときには1時間半もの時間が過ぎていた。
あっちゃんの部屋に戻ると、イワキさんはひと足先に自らの仕事に戻った後だった。あっちゃん本人は初めての「ホームでの昼食」を終えていた。
「お昼、もう食べたんだ」
「うんそうなの」
すでにひととおり荷物は片付いていて、洋服の類もちゃんと収納がされていた。
持ち込んだテレビの接続がまだだったので、アンテナ線と本体を接続し、ベッドに腰かけた状態で見やすいと思われる場所に設置をした。
「これでテレビ見られるから」
「リモコン、うちのと同じね」
そりゃそうだ。これで引っ越し完了だ。
よし。ここにあまり長居をしてもしかたがない。何よりあっちゃんがごね始めてしまうのは避けたい。
本人は混乱している状態かもしれないけれど、勢いのまま新生活をスタートしてもらおう。
「じゃあ、そろそろ行くから」
「あらもうなのね」
「うん。わからないことがあったらスタッフの人になんでも聞いて」
「お母さん、行きますね。お元気で」
「送るわ」
エレベーターホールまででいいと言ったけれど、あっちゃんは1階のエントランスまで降りてきた。
「じゃあね」
スタッフのみなさんよろしくお願いします、そう願いながらグッドライフを後にした。
ひとつ肩の荷が軽くなったような気持ちと、小さな小さな罪悪感とともに。
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