[078]
あっちゃんの老人ホームへの入居当日である。
朝からどうしてもバタバタとしてしまうのだが、当の本人はなんだか前向きだ。この洋服も持っていく、と追加で用意をしたりしていた。
「何時に出発なの」
それだけなら万々歳なのだけれど、そうもいかないのがまた難しい。
「いつ戻ってこれるのかしら」
「お母さん、もう戻ってこないんですよ」
「そうなの?戻ってくるんでしょ?」
いちいち否定するのも心苦しいのだが、嘘をつくわけにもいかない。
身のまわりの準備も含めて対応をみぃさんに任せて、わたしはテレビの配線を外し始めた。
テレビ本体はあっちゃんの新しい部屋に持ち込むことになっている。
また、ケーブルテレビのセットトップボックスは返却をしなければならない。
新し物好きだったマサさんが、次々に購入して配線したのだと思われる周辺機器と複雑に絡んだケーブルを、どうなってんだこれと文句を言いながらひとつひとつ外していく。
ハンディモップでテレビの埃を払ったところでマンションのインターホンが鳴った。月イチで交換してもらっていたそのハンディモップの返却だ。ルートで回っている担当者なので、引っ越し当日のこのタイミングになってしまった。
これは毎月現金で支払いをしていたようなので未払い金はない。長年の付き合いだったようで、あっちゃん自らが「お世話になりました」と担当者に挨拶をした。
このとき、わたしが思ったことがひとつある。
最近こうした定期的に家に訪問する人が老人の様子を家族に報告する見守りサービスが多くの業種で行われるようになっている。郵便局や宅配業者、もちろん警備会社など。わたし自身もそのサービスを利用しようかと思ったこともある。でも、難しいよ。
他人の前ではみんなシャキっとするもの。「お元気そうでした」のひと言で終わってしまうことが容易に想像できる。
やはりそこには包括支援センターなどのプロの目が必要だと実感していた。
出発予定は10時半。
そのおよそ45分前にシルバーサポート社のイワキさんがやってきた。
荷物の運搬はSS社のワンボックス車にお願いすることになっている。
わたしは荷物を詰めたダンボールとテレビを1階まで下ろしていった。引っ越し、とは言うものの4往復ほどで終わってしまった。
身のまわりのものだけとはいえ、本当に少ないと思う。たったこれだけでいいのか。でもそれで十分なのだな。複雑な感情が浮かぶ。
「ちょっとコンビニまで行ってくる」
少しの間を利用して、セットトップボックスをコンビニからケーブルテレビ会社に宅配便で発送した。
マンションに戻ったわたしに、みぃさんが問いかける。
「ここにあった紺のバッグ知らない?」
あっちゃんのふだん使っているバッグがかなりくたびれてたので、「引っ越しのときはこっちを持っていこう」と前日に用意しておいた同じブランドの紺のバッグ。確かにゆうべはソファの横に置いてあったが。
「そういえば今朝は見かけてないな」
ざっと周囲を見たけど見当たらない。
しかたがない。くたびれてるけど使い慣れているバッグのほうがいいよ。
「やっぱりここにはモノを隠す妖精がいるんだよ」
わたしは冗談交じりにつぶやいた。
まもなく出発時刻がやってくる。大事なのは予定どおり「出発すること」だから、それ以外のことには目をつぶろう。
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