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最後はあっちゃんの財布だ。本人の前で中身を取り出す。
「グッドライフではお金使うことがないから、僕が全部預かるね。小銭はそのまま入れておくけど」
「そうなのね。わかったわ」
抜き取ったお札とカード類の代わりに「現金とカードは預かりました」と書いたメモを1枚入れた。話によく聞く「誰かが私のお金を盗んだ」という被害妄想が発生しないとも限らない。効果があるかどうかはわからないが、一応予防の対策のつもりだった。
「じゃあ、財布はこのバッグの中に入れておくからね」
いつものバッグに入れるところも本人に見せた。
出発予定の10時半の少し前、グッドライフのミズマキさんが到着した。
「おはようございます」
「おはようございます。よろしくお願いします。荷物のほうはイワキさんの車にほうに積んでありますので」
「わかりました。ご家族の皆様は施設に入られる際にはマスクの着用をお願いします」
「奥様、おはようございます。体調はいかがですか」
「ええまあそうね」
なんとも微妙な返事を返すあっちゃんであった。
「じゃあそろそろ出発しようか。バッグだけ持って行けばいいよ」
ここから出発まで時間がかかってしまうのはいつものあっちゃんのパターン。ようやく靴を履いたかと思えば、マンションの向かいと階下の方に挨拶をするという。挨拶は前日済ませているのだが、そういうわたしの言葉は意に介さず、インターホンを押している。
「お世話になりました。これから出発します」
「こちらこそお世話になりました。どうぞお元気で」
「すぐに戻ってこられると思うんですけどね」
前日に話をしているので、ご近所さんはあっちゃんが戻ってこないことは理解しているだろう。その上で上手に相槌を打ってくれている。
逆に言えば、あっちゃんのこの状態でひとり暮らしをするのは無理だろう、老人ホーム入居も当然だろうと思ってくれたに違いない。
「あっちゃんはミズマキさんといっしょにこの車に乗ってね。僕らはイワキさんの車で行くから」
もうこのタイミングでわたしたちとあっちゃんは別れたほうがいい。なんとなくわたしはそう思っていた。
老人ホームまでの道すがら、わたしが同乗していると何を言い出すかわからない。逆にこれから生活する場所のスタッフであるミズマキさんと会話をしながら向かうというほうが、慣れるという面でもいいんじゃないかと思う。
わたしは自分の子供の手を引いて幼稚園に送り出した日のことを思い出したりしていた。
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