[085]
穏やかな日々はひどく短かった。
入居から5日。あっちゃんからの電話である。
『あのね』
そう切り出すと、あとは堰を切ったようだった。
『なんでこんなとこにいることになったの』
『こんなとこにはいられない』
『帰る』
もう帰るところはないんだよ。そこが住まいなんだよ。
『なんでこんなところにいなきゃならないのよ』
一緒に見学してここにしようって決めたんだよ。
『家に帰ろうと思うの』
マンションは売ることにしたでしょ。一緒に手続きしたじゃない。
『なんで勝手にそんなことを』
こうなるともう何を言ってもだめなんだろうな。話の腰を折ることにした。
「大丈夫だよ。困ったことがあればスタッフさんに相談すればいいから」
会話にはなっていないが、なだめるようにそう言って、半ば無理やり電話を切った。
そしてすぐ、施設のミズマキさんに電話をする。
「今しがた母から電話がありまして、自宅に帰るなどと強く言っていまして」
『わかりました。スタッフをお部屋に向かわせますので。大丈夫ですよ』
わたしがなだめられてしまった。
ミズマキさんの口調は実に穏やかだった。こういう話はよくあることで、想定内ということなんだろうな。
新生活に慣れるまではそれなりに時間がかかるだろうが、プロが付いていてくれるのだから、できるだけ心配はしないでおこう。いちいちキリキリしていたらこちらが持たない。
『ご対応よろしくお願いします』
「かしこまりました。それからお父様のほうですが、心臓のペースメーカーは訪問医療を対応してくれているよしだ内科病院の循環器内科で、それから脳梗塞のほうは脳神経内科で診てもらうことになりましたのでご報告しておきます』
「ありがとうございます」
マサさんのほうは新しい環境にどんどん移行してる感じだ。もちろん本人にはそういう意識はないだろうが、マサさんが穏やかにいてくれているのは何よりだ。
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