2014年8月29日金曜日

心の振幅。

「ひとのときを、想う。」ではないけれど、マナーってのは「せねばらならない」と決められていることではなくって、「気遣い」のことだと思う。めんどくさい言い方をすれば、「自分は社会とつながっているからこそ存在している」ことを自覚し、他の人も同様であることを認識することがその第一歩のはずだ。

年取ると気が短くなっていけない。

明らかに周囲の迷惑になりつつ歩く人がいる。一般的には「いい大人」といわれる世代だろう。迷惑かけられている数名が顔を見合わせる。何度か「示唆」したものの、気づいているのかいないのか、様子がまったく変わらない。気づいてないはずないんだけどな。

我慢できずにその人の横に移動して声をかける。目線を合わせてくれないどころか、反応しない。もう一度声をかける。僕に一瞥をくれることなく無視したまま、歩く速度を上げて人混みに紛れた。

「ごめんなさい」でも「あ、すいません」でも言ってくれればそれで終わりじゃないか。会釈だっていい。
逃げたってことは、わかってたってことだろ。それが一番のマナー違反。

でもその瞬間、僕が覚えたのは怒りの感情だけではなくて、どうしようもない不安感も。

無視されたのではなくて、実は自分自身がそこに存在してなかったんじゃないか、僕がいるのは違う世界なんじゃないか、社会とはつながってないんじゃないか――ちょっと錯乱した。

年取ると涙もろくなっていけない。

家に帰って少し晩酌しつつ本のページをめくっていると高ぶっていた気持ちが少し落ち着いた。
だが、本の中のある一文を読んだ瞬間、唐突に涙が出てきた。

琴線に触れるというのはこういうことか。文章を読んだというよりも文が入ってきた、という感覚。文章の内容を理解するより前に、気がつけば目の前がぼやけている。

世界から切り離されてしまったような感覚があったその夜に、本の中でその感覚が具体化したような。あるいはつながったような。

漠然とした不安感と漠然とした安堵感。

年を取ると。

そうか、年を取ると感情の振幅が大きくなって、喜怒哀楽がストレートに現れるということなのかもしれないな。
だとすれば、怒や哀だけでなく、きっと喜や楽も大きく出てくるに違いない。

早く年取ってしまいたいと思っている自分もどこかにいるのだけれど、そういうことならそれも悪くない。

もちろん喜怒哀楽の表現は、周囲に気遣いをしていると思っていただける程度の範囲で、ね。

もうすぐ誕生日がやってきて、またひとつ年を取る予定。
写真の森永マミーは49才。相変わらずおいしいんだけれど、てっきり年上だと思ってたよ。

0 件のコメント: