2025年1月8日水曜日

翳りゆくひと。[074]


[074]

老人ホームに持ち込む荷物といっても、基本的には洋服が中心だ。あっちゃんとみぃさんが話しながらひとつずつ選んでいく。冬物も一応選んでおかないとならない。そして下着も当然必要で、そこにはわたしの出番はない。
持って行くと決まったものにはわたしとみぃさんで分担して名前書きをする。
こうして徐々に荷物がまとまっていく。

「お母さん、化粧道具とか洗面道具とかもまとめないとね。でも明日も使うでしょ?」
「もうあんまり化粧とかもしないわよ」
「でもひととおりは持って行きましょうね」

遅々として進まなかったが、荷物はようやくまとまった。ダンボール、3箱。
家財道具が不要だとはいえ、人ひとりが引っ越すのにたったこれだけなのか。

いや、感傷に浸っている場合じゃない。

そうこうしているうちに、シルバーサポート社のウチコシ社長とのアポイントの時刻になった。社長と一緒にマンションまで来てくれたのが、ナカジマ不動産のイノマタさん。
マンション売却の話を進めるための来訪である。

当初「このぐらいで売却できそうです」と言われていた金額だが、やはりエレベーターがないということで各社かなり減額を提示してきていたのだが、SS社の交渉によって当初額にかなり近いところ数字を出してくれたのがこのナカジマ不動産だった。これ以上は交渉の余地はないだろうということで、売却先としてナカジマ不動産に決め、そして今日はわたしとの最初の顔合わせになった。

わたしの横にはあっちゃんにも座ってもらって話を聞いてもらうことにした。
どこまで覚えててくれるかは不透明だけれど、心のどこかに「マンションは売る」ということが少しでも残ればと思っていた。

「このたびはいろいろとお世話になります。よろしくお願いいたします」
「こちこそ、よろしくお願いします。金額のことですが」
「はい、その件はイワキさんからもご連絡をいただいていますので、ご提示いただいていた額でお願いします。あ、そうだ。登記簿と売買契約書、見つかったんです」
「確認させていただけますか。はい、こちらで間違いないですね。最終的な段階で必要になりますので、息子様のほうでお持ちください。あと固定資産税の納税通知書も見せていただけますか」

売却の手続きは、所有者であるマサさんに代わってわたしが行う。今日はまずそのための委任の書類を作成した。マサさんのサインのところはあっちゃんに書いてもらい、押印した。
手を動かしたことであっちゃんにマンションを売るんだという記憶が残ればいいのだが。

今後の段取りとして、まずは契約の取り交わしをオンラインミーティングで6月ごろに実施、手付金が振り込まれる。次に司法書士とマサさんの面談が行われて、問題なければ売却が確定する、と。
その間にマンションの中を原状復帰――とまではいかないが「空」にしておく。処理作業はSS社にすべて任せることになっている。
そして手続きが整ったところで残金の振り込み、そして引き渡しとなるそうだ。おそらく引き渡しは8月末ぐらいではないか、そうイノマタさんは言う。

「売却にあたり、お父様のほうに売却益が出ますが、特別控除があるので税金はかからないと思います」
「今回は老人ホームへの住み替えの費用ということで、何がしかの控除のようなものはなかったでしょうか」

みぃさん、このあたりの話は少し詳しい。

「残念ながらそのあたりの適用はないと思います」

みぃさんはこの回答は予想していたはずだ。だが、ひと言言うだけで、なされるがまま事が進んでいるわけではないよ、というアピールにはなったかもしれない。助かる。

「税金のほうは控除になりますが、収入自体が増えますので来年の医療費などに影響は出るかとは思います」
「承知しました。よろしくお願いします」
「オンラインミーティングのURLは後ほどお送りしますので」

マンション売却の話がひと段落したところでウチコシ社長があっちゃんに話しかける。

「お引っ越しの準備のほうはいかがですか」

以前も聞いた話ではあるが、あっちゃんがたくさん持っている和服はほとんど売れないだろうということを改めてあっちゃんに説明してくれた。

「そうね、しかたないわね」
「大切なものだけ、どなたかに差し上げるのが一番かと」
「留袖ぐらいかしら」

本人も高価なものは持っていないと言っていたし、処分は致し方ないところなのだろうが、あっちゃんは少し寂しそうな表情に見えた。
だが、実際問題老人ホームに持って行ってもただの邪魔な荷物にしかならないこともまた確か。

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