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タクシーを拾ってマサさんが入院しているよしだ内科病院に向かう。
こちらも事前に面会の予約をしているのだが、さすがに医療機関だけのことはあって、面会の前に抗原検査をしなければならないと告知をされていた。
到着してすぐ鼻の中をぐりぐりとされて結果が出るまで10分間、その間にナースステーションの前で看護師の方とマサさんの状態について話をした。
「老人ホームのほうで最近は吸引もしているような話を聞いたのですが」
「そうです。お食事は自分でこう、どんどん食べられるのですが、勢いが良すぎて、ということがありますね」
「そうですか。父は出されたものはすべて食べるというか、つまり食への執着はわりと強いほうだと思うんです。そのこともあるんでしょうね」
「確かに食事はしっかりと食べられています。状態も日々変化していますが、今は夜中の吸引が必要という状態です」
食べないと体力が戻らない。だが食べると誤嚥が起こる。
とても軽々しく「退院」という言葉を口にするのは難しいということだけは理解できた。
「今、お父様、手袋をしてもらっています。何か耳がかゆかったりするようで、掻きむしって血だらけになってしまうのでそれを防止するためです」
「わかりました」
「あ、陰性でした。402号室ですのでどうぞ面会行かれてください」
402号室は2人部屋。個室からは移してもらった。
手前のベッドにマサさんが横になっている。10ヶ月前からさらにやせ細ったようにも見える。
「久しぶり。わかる?」
何か反応したようにも思えるし、ただの怪訝な表情にも見える。
「元気そうでよかった」
そんなこと、微塵も思ってない。だがわたしの中から出てくる言葉はそれしかなかったのだ。
一方のマサさんは手袋で保護された右手でベッドの柵をつかんで体を起こそうという動きを見せた。もちろん自分の力では起き上がれない。
「いいよ、そのままで。起きなくていいよ」
看護師さんとの会話の中でイメージした状態よりもかなり弱々しい。
わたしのような一般人と、医療従事者の間には症状に対する受け止め方が違うのだろう。話によく聞く一般人と医療関係者の重症の捉え方の差異、みたいなことだ。
だが病院側が緊迫していないのなら、わたしもがんばって心配しないようにしないと。
「今ね、あっちゃんにも会ってきたんだよ。早く病気直して、またあっちゃんと一緒に暮らせるようになろうね」
あっちゃんの名前に何か反応があったように見えた。口が動く。聞き取れない。
何度か聞き返して、ようやく「話し相手がいなくて」と言っているように聞き取った。
「そうだね。だから早く治してあっちゃんのところに戻ろう」
マサさんはまた右手だけで体を起こそうとしている。いいよ、そのままで。もがくようなその姿を見ていることがつらい。
そうしてわたしの中でかけるべき言葉がもうなくなってしまった。
「看護師さんの言うこと聞いて早く良くなってね。また来るから。バイバイ」
手を振ったわたしに、マサさんは手袋をはめた右手を振り返してくれた。
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