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マサさんとあっちゃんを老人ホームに入居させてからおよそ10ヶ月、初めての「帰省」のためわたしは機上の人になった。
「明日、ちょっと用事があるから、ついでに顔見せに行くよ」
『あらそう。楽しみにしてるわ』
窓の外を見るではなしに眺めながら、わたしは前夜の電話の内容を思い出していた。グッドライフに面会の連絡したのはずいぶん前の話ではあるが、あっちゃん本人にはあまり早くに予告電話をかけて忘れられてしまっても困るし、前夜の連絡にしたのだが。
最初に思ったのは、まだ元気だったころによく言っていた「来なくても大丈夫よ、ちゃんとやってるから」というセリフが出てこなかったこと。それから口調そのものがとても穏やかに感じられたこと。少しずつ少しずつ、新しい生活に慣れ始めてるのかな、そんなことも思う。
『そうだ、マサさんは入院しているのよ』
「うん。そっちにも回ってみるつもりにしてるから」
『私はここの病院から出られないから来てもらえるのはありがたいわ』
「そこは病院じゃないよ」
『そうね、そうだわね』
定刻より少し早く飛行機は着陸した。わたしはなぜか少しだけ緊張していた。
コンコンコン。
「はい、どうぞー」
あっちゃんの声が聞こえてわたしは引き戸を開ける。
「こんにちはー。久しぶり」
「あら、どうしたの」
案の定ゆうべの電話のことは覚えてなかった。まあいい、それを言っても始まらない。
それよりもあっちゃんの見た目だ。明らかに血色がいい。
「元気そうだね。顔色もいいよ」
「そうかしらね」
「うん、ここで三食ちゃんとごはん食べてるのがきっといいんだね。ひとりだと適当になっちゃったりするもん」
「そうね」
「髪の毛も切ってもらったりしてるんでしょ」
「いつものところに出かけて行ってもいいみたいなんだけどね。パーマかけられないからただのストレートよ。切ったのは1週間ぐらい前だったかな」
本当に先週かどうかは別にして、QOLが戻ってきていることは明らかだ。
本人は暇で暇でしかたがないと愚痴るが、それ以上のメリットはある。
「でも部屋から出ることもあるんでしょ」
「体操とかやってるんだけど、部屋にいることが多いかしらね」
「でもそういうのもやってみたらいいよ。体動かすことも大事だよ」
「そうね、暇なんだけどマンションに戻っても特にすることもないし」
「マンションには戻れないよ。もう別の人が住んでるし。お金に換えて、今の生活費にしてるんだよ」
「そうなの?着物とかどうなってるのかしら」
「留袖とか大事なものはみぃさんがちゃんと保管してるよ。ほかのものはほら、売っても二束三文だっていうし処分させてもらったよ。知らない誰かが着ちゃうのもなんだかいやでしょ」
「そうね、そうよねぇ」
繰り返されてきた会話ではあるものの、今日はあまり嫌がるというか、憤るというか、そういう感じはない。わたしの中ではかなり意を決してはっきりと言葉にしたのだが。もちろん対面で話しているという状況もあるんだろうが。
「そうだ、そのみぃさんからのお土産、これ。饅頭とからしいから部屋でこっそり食べてって」
話題はマサさんのことに。
「そういえば車の運転もけっこう危なっかしかったよね」
「そうそう。最後は自分がどこに向かって走ってるのか怪しかったのよ」
そんな話はそのまま今のあっちゃんの状態でもある。
「マサさん、今はよしおか病院にいんるんでしょ」
「違う違う。名前は似てるけども違う病院なんだよ。ここにときどき来てくれてる先生のいるよしだ内科病院なんだよ」
「そうなの?ずっとよしおか病院の知らない先生が来てるんだと思ってたわ」
この話も何度かしている。でも、めんどくさがらずに繰り返すことも家族の役割なのかもしれない。苛立たず穏やかに、さも初めて話しているかのように。
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